芥川龍之介の河童思ったこと箇条書き
僕は芥川龍之介の或阿呆の一生・歯車・河童の3作が大好きである。
「生まれゆく迷信」がテーマの歯車
「とめどない生理的嫌悪」がテーマの河童
「個人的カタストロフィを描く挑戦」の究極の完成品と言っても差し替えがない或阿呆の一生。どの作品も好きである。今回は河童の好きな所なんかをただなんとなく書いてみようと思う。
河童は「生理的嫌悪」がテーマになっていて、特定のイデオロギーや社会風刺と評論している方もいるけれど、芥川龍之介の嫌悪はイデオロギーの転移どころでは無かったのだろうと思う。
出産に対する嫌悪、労働システムへの嫌悪、男女の恋愛観への嫌悪、あまりにもヘンテコじみた宗教。全ての社会制度と文明観が河童の世界においては狂っていて、主人公はそれに辟易する事になる。
だが、人間の世界に帰ってからの主人公は人間の世界の文明に果てしない嫌悪感を抱くようになる。イデオロギーですらない。人間が「文明」と呼ぶ秩序や規範に伴う人間性として当たり前のように肯定されている価値観。それが主人公にとって、全てが生理的嫌悪に変わってしまった。
「当たり前の世界」に嫌悪感を抱くようになってしまったら、人はどうすれば良いものだろうか?
美しいとされている出産も、世界の建造物も、人が人であるためのあらましも人間性として賛美されている当たり前も、彼にとっては嫌悪の対象でしか無かった。
まるで、自分だけが異世界の住人のような、嫌悪感を持ってしまったら、その嫌悪感は真実なのだろうか?
このデグウを抱いている彼が早発性痴呆なのか、当たり前の様にそのデグウにまみれた中で生活している阿呆どもこそが早発性痴呆なのだろうか。
結局主人公は助からない。永遠に精神病院の中で一生を過ごすことになるであろう。
けれど、彼の抱いた嫌悪感、デグウが果たして「狂気」であると我々文明社会は定義づけるべきなのだろうか?
私にはわからない。私は河童の主人公である彼こそ正気だと思う気持ちすらある。
人が何かに生理的嫌悪を抱いた時、それが社会の定める人間性に反している時、それは狂気と定められるべきなのか?
芥川龍之介はこう問いかけたがっている様にも個人的には思えた。
自分だけが異世界の住人のような、世界に対して生理的嫌悪を抱いた時、その人間は「人間性を喪失している」と言えるのだろうか?
芥川龍之介自身は恐らく主人公と同じ様な嫌悪感を抱いて社会と闘って居たのだと思う。
社会と闘争をし、その闘いに敗北し、最後には自害してしまった。
「自分の嫌悪感は間違っている感情なんだ」
そう思い自分の心を塞いで気持ちを黙殺しようにも、自分の体の中にある感情はあまりにも強大すぎた。
この嫌悪感はイデオロギーの転移ですら治らない。人間が敬愛し、当たり前のように愛し、賛美し、誰も否定しない「秩序や規範」に対するデグウなのだ。
誰が彼を救えるだろうか。
誰も彼を救えない。
ただただデグウを持ってしまった彼に、わずかばかりの同情を送るばかりだ。